躁鬱の魔窟

8月10日水曜日、快晴。朝8時。目が覚める。なぜであろうか、意識は非常にはっきりしているのに、体の方が言葉に言い表せないけだるさを感じている。頭の方は確かに、今から私の身に起こることが理解できているのだ。しかし体はそれを生理的に、(幼い子供が特定の人物の前では、決して笑顔を見せないのに似ているかもしれない)頑健に受け入れようとしない。

そう、今日は私の故郷である鳥取に帰る予定の日である。
昨日までのうちにすべての用意は済ませている。スーツケース、現金、飛行機のチケット、滞在中に実家で使う一本410円の歯磨き粉まで用意している。今からすべきことなど何もない。
でも私の表現しきれぬ不快感は、決してそのような次元の出来事ではないのだ。
 
 床に転がったまま、目が覚めてから10分が過ぎる。起き上がる気がしない。というよりはむしろ、起き上がることができないのだ。頭では、いい加減起きなければならぬことは百も承知である。しかし私の体は、地団太を踏んで泣きわめく子供のように、“たとえこの身に鉄火を打ち付けられようとも”と言わんばかりの頑固な意思を持っている。

 外では街路樹の蝉が、ただひたすらに大きな声をあげている。

そもそも私は遠出が好きではない。
旅行なんて準備するのが楽しいだけなのだ。目的地に至るまでの行程や着いた先での行動を脳内で描くことが結局のところ、私にとっての旅行である。
本当に前日まではすごく楽しみなのである。でもその日になると、何日もかけて立てた計画やすでに支払済の航空券ですら、私にとっては道端に落ちている石ころ同然になってしまう。
ちょうど、バベルの塔を建造していた人間たちがある日神により話す言葉を変えられ、一夜にしてそれまで作り上げていたすべてを打ち捨ててしまったようなものであろうか。

 私が高校生だったころ同級生に、『Google Street View』でアメリカ大陸横断をした友人がいる。
その当時の私は、彼らに対してその労力と集中力は認めつつも“下愚な人間たち”としてどこか嘲笑していた。でももし時を戻せるのなら、いま私は彼らに対して、この両手を差し出し最高の賞賛を与えたい。

 何も生まれない思いをとりとめなく巡らしているが、そろそろ起きなければならない。
はあ、とりあえず体がだるい。